雑誌をはじめとするメディア、インフルエンサー、企業、PR担当(自分も含む)。業界内にいるからこそ、それぞれの仕事や事情、葛藤、そして品格や情熱も見えます。また、どの立場でも、誠実な人、残念ながらそうでない人がいるであろうことも、感じています。
そういったことから、「ギフティングはステマだ」という大雑把な全体論を目にすると、少し違和感があります。
ステマとは、広告であるにもかかわらず、広告だとわかりにくくする行為であり、「うそや大げさな表現など、消費者をだますような表示」が景品表示法により規制されています。
この定義からすると、製品を渡す/受け取るだけで直ちに問題にはならない、つまり、ギフティング(無償提供)=即ステマ、にはならないためです。
問題になるのは、その先です。
投稿するという「行為」が、提供側から依頼されたことなのか、依頼はなく、受け取った側の判断で行われたものなのか。わかりやすく言えば、「案件」なのか、そうでないのか。ここが、法的なわかれ目です。
「どんな内容を書いたか」以前に、提供元である事業者からの依頼や働きかけ、あるいは過去の実績や将来の取引可能性を含む一定の関係性のもとで投稿が行われる場合は、公平性を欠く可能性があるとみなされ、内容に口出しされていないとしても広告であるとわかる表記が必要になります。
ひねくれて考えると気になるのは、もしも世の中的判断基準が「ギフティングはダメで自腹なら信じられる」にふりきられてしまったら?ということ。自腹購入分がギャラや協力費としてペイバックされる設計による、「自腹風」の投稿が登場・横行するかも?内容も、あえての辛口を含んで…。
こうなるともう、疑心暗鬼の無限ループに陥りそうです。
ステマをめぐる世の中の議論は、法の話、倫理の話、そして感情の話が一緒くたにされがちです。
本来は切り分けて語られなければならないはずですが、これらが混ざりあって、いつの間にか話がすり替わってしまいがちです。
「投稿する行為が、事業者から依頼されたもの(事業者が関与している)かどうか」を法的に問うているにもかかわらず、「誤認させない誠実さがあるかどうか」という倫理観の話にいつしか変わり、「もらったものであることを明らかにしていないのはダメ」「ギフティングは仕込みなんだ」というような、ざっくりした感情論へと帰結していく。
もちろん、案件ではないギフティングであっても、「もらったものです」と明らかにすることは、誤解を招かない責任ある投稿として望ましいのは言うまでもありません。
とはいえ、そうしないのが違法という話には、現状なってはいません。
にもかかわらず、「明示していない=ステマ」「PR表記がない=アウト」という感情論が膨らんで、大きな渦となってあっという間に広がってしまう。本当に難しいなと思うとともに、複雑な気持ちにもなります。
例えば雑誌等で、無償提供による製品が発売前に試され、レビューが公開されることは本来、ジャーナリズム活動の一環です。テクスチャーや色味の様子を見られたり、数多くの製品、社会や業界の動きに精通したプロのコメントをチェックしたりできるのは、何かしら参考になることもあるはずです。
もちろん、そこに広告的な思惑や忖度が入り込む余地があることも、否定はできません。
だからこそ、すべてを疑わず、すべてを信じもしない。
少し距離を取ってフラットに見極める。
委ねすぎず、参考程度の気持ちで情報に触れる。
そんな付き合い方が、今は求められているように思います。
ちなみに、ギフティングに真摯に向き合ってきたPR担当としては…。
製品に魅力を感じてくださったメディアでの紹介がひとつずつ積み重なっていくことで、広告を打つ資本力がないようなブランドであっても、知名度や信頼感を少しずつ高めていけたと感じています。
最後に。
規制は時代に合わせて変わっていくので、引き続き、丁寧にキャッチアップしていきます。
